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京大吉田寮が取り壊し

8月26日(火)の信毎に、「京大吉田寮年度末退去へ」という記事が掲載されました。

吉田寮は、今から112年前の1913年(大正2年)に京都帝国大学の寄宿舎として建設されました。その際、別の場所にあった寄宿舎の部材が転用されています。

現在の吉田寮は吉田キャンパスの構内にあり、日本最古の学生寄宿舎です。木造2階建てで、南寮・中寮・北寮の3棟で構成されていました。食堂が併設されており、今から136年前に建設されています。

現在は1棟と食堂のみが古いまま残されており、新棟(西寮)は10年前に建設されています。この寮は、大学による運営ではなく、寮生により自治運営が行われてきました。

吉田寮は老朽化しており耐震性もないため、大学がすべての建物を改築する計画を立てましたが、吉田寮自治会が自治運営を求めて建物を明け渡さなかったため、明け渡し訴訟が行われていました。

この度和解が成立し、寮生が退去して建物を明け渡すことになりました。これを受けて大学では建て替えを検討し、5年以内に新しい建物を建設することになります。

私が寮に入った昭和46年にはすでに老朽化が進んでいました。電気配線は裸配線で、部屋の照明は裸電球、トイレは古い共同トイレで、冬の煖房はコタツだけでした。勿論冷房はありません。共同浴場もないため毎日銭湯へ行きました。寮生が自主運営する食堂があり、食事は昼と夜だけ提供され、昼はカレーライスのみで1食50円、夜は1食100円のフライか丼物でした。

当時は学生運動が盛んで、吉田寮は学生運動の拠点になっていました。学生によるストライキが実行され、大学が封鎖されることもたびたびありました。

寮は、低所得家庭の子弟に限り入ることができました。同じような境遇の寮生が多かったためか、皆仲良しでした。

不自由な生活でしたが、寮生同士の触れ合いなどがあり、楽しい生活を送ることができました。仲間で酒を酌み交わしながら、天下国家について論じあうことも多くありました。今の私の原点が、吉田寮での生活にあるような気がします。

私にとって吉田寮は、青春の思い出が一杯詰まっているとても大切な存在ですから、取り壊されることには一抹の寂しさがあります。


委員会の調査に参加(その2)

〇 塩尻志学館高校

・ 明治43年に農学校として設立、大正11年に県立東筑摩農学校に改組。

・ 昭和24年に県立塩尻高校と統合して、長野県桔梗ケ原高校となる。

・ 昭和56年に塩尻高校、平成12年に塩尻志学館高校となる。

・ 15学級・生徒数577人(1学年定員200人)、総合学科高校(平成12年から、県下初)。

・ 学科は、人文、理数、芸術スポーツ、農業科学、ビジネス情報、生活文化、生活福祉。

・ 農業科学系列では、毎年度自校の畑から収穫したブドウを原料にしてワインを製造し、学校祭で一般販売を行っている(写真はワイン製造工場)。北海道などでワイン研修を行っている。

・ 高校再編に向けて、田川高校(塩尻市)と連携して再編実施計画を進めており、新校は総合学科高校となる。開校は令和15年度、想定募集学級数は6学級、新校の校地は塩尻志学館高校の校地。


委員会の調査に参加(その1)

8月18日(月)・19日(火)の2日間にわたり、所属する県議会環境文教委員会の委員として県内調査に参加しました。

今回は、中南信地域の県の現地機関や委員会に関係する機関等が対象で、安曇野市立明科中学校、上伊那農業高校(南箕輪村)、上伊那地域振興局、南信教育事務所(伊那市)、飯田マイクログリッド(飯田市、太陽光発電)、飯田風越高校(飯田市)、塩尻志学館高校(塩尻市)を調査しました。

調査の主な内容について、2回に分けて報告します。

 

〇 安曇野市立明科中学校

・ 安曇野市では、コミュニティスクール、同一中学校区での小中一貫教育、安曇野を体験的・探究的に学ぶ地域学習を進めてきた。

・ 県教委の「ウェルビーイング実践校TOCO―TON」に応募して指定を受け、小中一貫教育・幼保小中高連携教育を実践している(認定こども園2園(自然保育)、小学校2校、明科中学校、明科高校で構成)。

・ 支援のため、県教委から教師が1名配置されている。

・ 教育目標を、「子どもも教師も地域も、チャレンジと探究でふるさと明科を心に刻む明科教育」としている。

・ 総合的な学習では、①自然に浸り、遊び、作る②企業訪問、起業家学習③まちづくり協議会と連携に取り組んでいる。