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県道整備促進期成同盟会が発足

4月25日(火)に、伊那市役所で「伊那市県道整備促進期成同盟会」(会長伊那市長)の設立総会が開催され、同会の顧問として出席しました。

この同盟会は、市内を走る4つの県道(竜東線など広域的な同盟会が設置されている路線を除く)の整備を促進しようと、市、沿線の区長、市会議員で構成されています。

これまで市では、路線毎の別組織で活動していましたが、組織力が弱いなどの課題があったため、今回一つの同盟会に統合して活動することになりました。

4路線は、「西伊那線」(美篶~富県新山~駒ケ根市)、「芝平高遠線」(高遠芝平~長谷~高遠町)、「沢渡高遠線」(西春近沢渡~高遠町)、「車屋大久保線」(東春近車屋~駒ケ根市大久保)ですが、国道153号「伊駒アルプスロード」(駒ケ根市北ノ原~宮田村~伊那市東春近)と交差するなど、それぞれ重要な路線であり、計画的な整備を行わなければなりません。

私は地元県会議員として、沿線の住民の皆さんの声を聴きながら、整備促進に向けて活動していきます。


「復興大臣」辞任に思う

今村復興大臣は、東日本大震災に関する自らの発言について責任を取り、4月26日(水)に辞任しました。

25日に大震災の被害に関して「まだ東北で、あっちの方だったから良かった。」と発言し、「東北地方の皆さんを傷つける極めて不適切な発言」(安倍首相)と批判されました。

被災地に寄り添うべき大臣が、被災地を差別するような認識を持っていたことは理解し難いことです。

大臣は佐賀県の出身ですが、1年前に発生した熊本地震についても「九州で、あっちの方だったから良かった。」と思っておられたのでしょうか。

東京(霞が関)から見れば確かに「あっちの方」でしょう。しかし、「あっち」でも「こっち」でも、どこでも大災害が起きたことは大変なことです。

高遠藩(現在の伊那市)の藩主の保科正之(江戸幕府3代将軍徳川家光の異母兄弟)は、1643年に会津藩(福島県会津若松市)の初代藩主となりました。

後に4代将軍家綱の補佐役を命ぜられ、幕府の重要なポストに就きましたが、明暦の大火(1657年)で焼け落ちた江戸城(現在の皇居)の天守の再建について、保科は「無駄な出費は避けるべき。」と主張したため、ついぞ天守は再建されず今日に至っています。

保科は災害救済対策に特に力を注いだと言われており、今村大臣には保科の考え方を参考にしていただきたかったと思います。

歴史的な縁により、伊那市と会津若松市は姉妹都市になっています。

伊那市民にとりましては、親戚である福島県が被害に遭ったのは大変悲しいことであり、「あっちの方で良かった。」と言われるのは大変心外です。


新入社員激励会が開催

4月26日(水)に、伊那商工会館で伊那商工会議所主催の新入社員の激励会が開催され、会議所顧問として出席しました。

今年は、22社(市役所含む)から107人が参加しました。

新入社員を代表して㈱風越(伊那市)の安藤元さんが、「感謝の気持ちを忘れずに、謙虚さを持って働きたい。」と決意のことばを述べました(写真)。

すがすがしく若者らしい決意表明であり、前向きな姿勢が伝わってきました。

地方の最大の課題は「地方創生」ですが、人口減少にストップをかけ、活力ある地域にしていくには、若者が地域に定着することが重要です。

未来を担う若者が地元に就職していただくことは、大変ありがたいことです。

若者の地元定着のためには、働く場の確保が不可欠であり、官民が連携して働く場の創出に努めなければなりません。

私が就職した時には景気は拡大基調にあり、大学の同級生のほとんどが都会地の大企業や中央官庁に就職しました。

私は色々迷いもありましたが、家庭の事情もあって伊那市役所に就職しました。今では、素晴らしいふるさとで家族にも恵まれて暮らすことができ、本当に良かったと思います。

就職された皆さんの、ご活躍とご多幸を祈ります。